動画インタビュー
イントロダクション(本より引用)
おかあさんは、冷蔵庫?
本文中より
潮田登久子
「アプちゃんのおかあさんは、冷蔵庫?」当時2才の娘に向かって夫はたずねます。彼女はマホという名がまだうまく言えず、まわらぬ舌で自分のことをこう呼んでいたのです。その彼女はいつも、母親である私の洋服の裾を掴んでいるか、大きな冷蔵庫のドアに片手をついて、「コーリチョウダイ」「アメシャン、チョーダイ」等と言ってました。
生れたばかりの子供・マホと、夫・島尾伸三と私の三人の生活は、世田谷区豪徳寺にある古びた西洋館の2階の一室から始まりました。15畳ほどの広さの部屋は、天井までの高さが3メートル余りある正立方体の箱のような空間でした。その箱の南には大きく開いた窓、反対側には青いトタン板を張りつけた粗末なテーブルがあって、その上にガス・コンロ、もう一方の角には粗末な作りの押入が据えつけてありました。テレビもビデオも掃除機も洗濯機も家具らしきものが何も見当たらないそこに、いかにも大きすぎる白い冷蔵庫が広い壁の真ん中に鎮座していたのです。
この冷蔵庫は夫が進駐軍の払下げを売る解体屋から、シンプルなスウェーデン製のを選んで4万円で買ってきたのです。冷凍室と冷蔵室に分かれてはいるものの、他にはなんの機能も飾りもない、そっけないものでした。モーターが動き出すとその白い大きな箱のように体を振るわせて唸ります。冷凍室はすぐに氷がこびりついて、まるで氷の洞窟ようになります。
そのうつろな口の中には、義父の土産のポーランドの草が入っているお酒やアララト山の絵がかいてあるズブロッカがビンごと凍っていて、夫は友達が遊びに来ると、それを大事そうに布にくるんで取り出します。ビンは外気に触れるとまたたく間に真っ白な結晶で覆われます。彼らが小さなグラスにつがれるトロリとした液体をおいしそうに、2、3杯飲むと、ビンはまた大事に、すぐに洞窟に戻され寝かされます。
冷蔵室も野菜や果物がしもげてしまう、温度調節の効かないしろものです。それでも、私も夫も子供も、唯一の調度品であるこの冷蔵庫を、大喜びでフルに活用しました。上の棚には食器、歯磨きセットは中の仕切に、ある時はコンコンカラカラ音を立てる干からびたレモンや深くしわの刻まれたリンゴも捨てがたく何時までも棚に転がっていました。時には子供のおもちゃまでが冷やされています。
南向きの窓からは、月と星と太陽が食事や昼寝やベッドの中の私たちをいつも照らしていました。夫はそんな貧乏を実に満足そうに楽しんでいました。思い出したようにカメラを取り出し(彼は写真家です)、娘や私の手足や、光を浴びてキラキラ光るテーブルの上のコップやお皿に向けてシャッターを切っていました。
貧しいけれど、実に平和なこの毎日が不思議に思えてなりませんでした。そして、思いもつかなかった今の自分の生活を記録に留めておこうと私は思いました。押入れに掛けたボロボロのカーテンや、階下の共同炊事場の冬の弱い光に鈍く光る水道の蛇口を撮ったりしました。そんな中の一つとして冷蔵庫も撮っていましたが、他の物に比べ冷蔵庫の存在感がとても気になり出しました。3人にとって平安な日々の証であるはずの冷蔵庫は、その凍った箱の中に私達の混乱をも氷河のように閉じ込めていたりもしたのでした。
そこで、正面から構え歪みを少なくし、ドアを閉じたシーンと、開けたシーンをセットにし、冷
蔵庫を定点観測することにしました。情緒に流されず、客観的に記録する気になったのです。こうして、自分のささやかな生活の記録として撮りすすむ中に、大家さんの冷蔵庫、私の母の冷蔵庫、友達、親戚というように、拡がりました。時間もたちました。マホは中学生になり、高校生になってました。
冷蔵庫の写真を並べて幾度か写真展もしました。私の手を離れて作品となったそれらは、実に様々な受け止め方をされました。コンセブト写真、フォト・エッセイ、小さなルポルタージュ、新手のドキュメント等と、きっとどれも本当なのでしょう。女性たちはもっと身近な風景として楽しんで下さいます。「この冷蔵庫にはスッポン・エキスが入っている、アハハ」「あっ、この家は生協に入っている」という具合にです。
(東京都写真美術館図錄「写真都市・東京[1995年]』より)
感想
定点観測された写真集がとても好きだ。ベッヒャーの給水塔、有野永霧の日本人景・温泉川、南の島の歌い手だけをあつめた高桑常寿の唄者の肖像など。その中でも、これは、とても好きな写真集の一つだ。ポートレートなどと違い、人は直接的には映っていないが、冷蔵庫の整理の方法、冷蔵庫の周りにある物たち、冷蔵庫に貼っている張り紙、全てが人の行動と思想の習性(クセ)であり、隠しきれない部分である。その写真から人柄がなんとなく見えてくる。個人ではなく、その家族も含めて。愛すべき一冊。
本
プロフィール:wikiより
潮田 登久子(うしおだ とくこ、1940年 – )は、日本の写真家。
1940年、東京都生まれ。東京を拠点に活動し、静物を中心としたモノクロ写真を撮り続けている。主な作品に「冷蔵庫/ICE BOX」シリーズ、「本の景色/BIBLIOTHECA」シリーズがある。夫の島尾伸三との共著で、中国の一般庶民の生活や雑貨などを撮ったシリーズがある。
書籍情報
潮田登久子写真集
ハードカバー:128ページ
出版社:光村印刷 (1996/12/1)
発行日/1996年11月22日
〒154東京都世田谷区豪徳寺2-27-2
Fax 03-3429-9409
AD/古賀大介(サウルス・デザイン)
PD/新木恒彦(光村印刷)
発行/光村印刷株式会社
〒141京都品川区大崎1-15-9
Tel 03-3492-1177 Fax 03-3495-2939
印刷.製本/光村印刷株式会社
@ Ushioda Tokuko 1996
ISBN-10:4896159284
ISBN-13:978-4896159288