夏油傑の「弱者生存」から「非術師皆殺し」のビジョンの転換
今回は、呪術廻戦の夏油傑の正義から悪へ、そして弱者生存から非術師皆殺しへのビジョン転換の様子を考察してみたい。
初期のビジョンは弱者生存
僕は呪術廻戦の中でも2期の玉折が一番面白いと思っている。個人的には夏油傑の心情の変化と、選択が一番興味深い。元々は「弱者生存、それがあるべき社会の姿さ。弱気を助け、強気を挫く。いいかい悟、呪術は非術師を守るためにある。」と1話で話している。懐玉の4話の最後では、盤星教の人々を殺すか問われた時に「いい、意味がない。見たところ、ここには一般教徒しかいない。呪術界をしる主犯の人間はもう逃げた後だろう」と発し「意味ね、それ本当に必要か?」という問いに「大事なことだ。特に術師にはな。」と答える。
呪術師は非術師を守るべき存在
これらのことから、基本的な思考として、呪術師は社会的に非術師を守るべき存在だと考えている。そして、非術師は弱者であり、その弱者が生存していくべきが、あるべき社会だという認識をしている。
呪霊を無くす方法は、全人類から呪力を無くす、全人類呪力コントロールを可能にする、の二つ。
しかし、玉折で特級術師九十九由基との会話では、まず「呪術高専がやってることは対処療法(湧いてきた呪霊を狩っていく)で、私がやりたいのは原因療法(呪霊の生まれない世界をつくろうよ)。」と話している。その上で、呪霊の生まれない世界のつくり方は2つ。1_全人類から呪力を無くす。 2_全人類に呪力のコントロールを可能にさせる。
その上で、九十九が2の線で行く場合に「全人類が術師になれば呪いは生まれない」という考えを示したあとに夏油は「じゃあ、非術師を皆殺しにすればいいじゃないですか。」という提案をする。これは社会的モラル、正義感を持った夏油傑の良い面ではなく本音の面。弱者は弱者であることに謙虚であり、それを認識して生きるべきもので、それができないのであれば、死ぬことで社会が良くなるのではないか?という仮説のもと発されている一つの提案だと思われる。
それに対して、九十九は「それはありだ。」と答えている。
弱者を守る、非術師を守るというビジョンが揺らぐ
「非術師は嫌いかい?」と問われた夏油は「分からないんです。呪術は非術師を守るためにあると考えていました。でも、最近私の中での非術師の...価値のようなものが揺らいでいます。弱者ゆえの尊さ、弱者ゆえの醜さ、その分別と受容ができなくなってしまっている。非術師を見下す自分、それを否定する自分。術師というマラソンゲーム。その果てのビジョン(映像)があまりに曖昧で、何が本音かわからない」それに対し九十九は答えを提示する訳ではなく「どちらも本音じゃないよ。まだその段階じゃない。1_非術師を見下す君 2_それを否定する君 これらはただの思考された可能性だ。どちらを本音にするかは、君がこれから選択するんだよ。」ここで会話が終わる。
社会的には非術師は弱者であり、呪術師が守るべき存在だと認識している。しかし、本音では弱者が傲慢な行動をとっている中で、この醜さを持った弱者は救うべき対象なのか?という本音が見え隠れする。それが揺れ動いている。さらに、マラソンゲームというのは、九十九由基が示したように、発生した呪霊を狩り続けるということは、尽きることはなく、根本的な問題解決にならない。さらに、呪術師は必ず自分より強い呪霊に出会い、仲間を失ったり、死んだりしていく。イタチごっこであり、ひたすら盲目的に走り続ける耐久レースのような意味で、マラソンゲームという言葉が使われたのだろう。
ビジョンが転換するきっかけは、非術師の弱さと醜さを確信した時
この後、任務で夏油は傲慢な弱者と対峙し、その村の全員を殺してしまう。要は「非術師を見下す君」を本音として選択したということだ。ここで「非術師は弱者であり守るべきもの」という対象から「非術師は醜い弱者であり間引き続ける対象である」という思考に100%転換する。
夏油傑は「弱者生存」というビジョンから180度転換し、術師だけの世界をつくり、呪術が生まれない世界をつくるというビジョンに確信を持ち、それが大義となっている。
九十九由基が目指すビジョンである、原因療法と大義は同じだが、手法が非術師を間引き続け、術師だけの世界をつくり、根本的に解決しようというものである。
果たして夏油傑は悪なのであろうか?
ここから、夏油傑は社会的には「正義」から「悪」へと180度転換し扱われる。アニメとしては、この筋で問題ないと思うけれど、果たして夏油傑は悪なのか?と僕には疑問が残る。100年後、1000年後、どちらが正しい選択なのか?というのはわからない。1_呪術師が対処療法として、永遠に非術師を守り続ける。でも、永遠に呪霊は湧く。2_非術師を間引き続けた結果呪霊が生まれない世界ができあがる。この両者の論は永遠に平行線を辿るようには思う。だから、どちらも正義であり、考えが合わない限りは、この両者が対立して戦う。これが戦争のようなものだ。社会でも同じようなことが起きる。
必ずしもどちらが正しいとは言えないと僕は思う。というのが僕の結論だ。正義と悪は紙一重だし、自分の目線として、弱者生存のビジョンが正しいとは正直思えない。術師だけの世界をつくるというビジョンの方が合理的なようにも思う。それをアニメの中では悪として扱われ、正義と対峙させるというのは当然のシナリオだが、夏油側にもビジョンに共感した物たちが集まってきている。それは悪の集団ということになるが、これは善悪ではなくビジョンの相違というだけに他ならない。
現実世界においても、全ての戦争、全ての争いやすれ違いはビジョンの違いによって生まれていると思う。そして、この事象からもわかるように、ビジョンというのは天秤の釣り合った状態で、少し思考が変わると180度振り切れることがある。
これは、アニメだからという訳ではなく、現実世界でも起こり得ることだということを肝に銘じておきたい。
エンディング曲 燈/崎山蒼志
上記の見解を踏まえて、エンディングの崎山蒼志の燈はめちゃくちゃよくできている歌詞だ。若いのに素晴らしい。YOASOBIといい、崎山蒼志といい、物語の核を理解しながら、曲に乗せていく技術と感覚は感服する。